緑 茶 屋

  宋の時代、中国でお茶が盛んに流行しました。その頃、宋に留学していた栄西は、建久2年に五つのお茶の種を茶壷に入れて持ち帰り、明恵に贈りました。
 明恵は宇治、駿河、武蔵、大和、伊勢、伊賀に茶を植えました。それらは現代まで続く茶の名産地になりました。壷は今も京都高山寺に保存されています。
 その後中国では、妙り茶製法へ大きく変化したため、蒸し茶製法は姿を消して日本にだけ受け継がれていきました。
 室町時代に村田珠光や武野紹鶴が茶の湯文化を創造し、さらに干利休が茶の湯文化を完成させました。

 

玉露と煎茶の違いは等級の違いではなく、茶葉の育て方の違いです。
玉露や抹茶は直射日光を避けて、新芽が出るころから茶摘みまで茶樹を遮光して育てられます。それ以外に用いる茶樹の葉は、露天で陽光をたっぷり受けて育ちます。
 茶葉を八十八夜前後に摘んだ一番茶が煎茶になります。煎茶は一番茶に限られ、それ以外は番外のお茶で番茶です。

美味しいお茶の入れ方、
抹茶
 抹茶の場合、お湯は熱湯を使用します。茶筅を使ってふわっときめが細かく泡立つように点てます。
 菓子は、自分のお茶を飲む前に食べます。
お茶が出されたら、茶碗を右手で取り、左手の上で半回転ほど回してから飲みます。
 飲み終わると、飲み口を人差し指で左から右へぬぐいます。茶碗を逆に回して正面をもとに戻し畳の縁外に置きます

 茶筅を使って点てる抹茶はほろ苦さとふわっとしたまろやかな口当たりの奥深い味わい。茶葉に含まれる成分がそのまま吸収できます。
 菓子の後で抹茶を飲むので、菓子の甘味と抹茶の苦みがほどよく調和し後口がすっきりします。
緑色の薄いものは甘みが強く、緑色が深くなるほど渋みが増します。
玉露
 茶葉の量は3人分10gで大さじ2杯くらいです。お湯の温度は約50度で、湯の量は1人分約50mlです。浸出時間は1分30秒から2分く30くらいです。
 玉露のうまみを引き出すには茶葉をたっぷり使い少量の湯で煎茶より低温で他のお茶より長い時間をかけて入れます
 玉露は、ほのかな独特の香りと、甘く濃密なうまみをもっています。
煎茶
 煎茶の場合は3人分で約8グラム大さじ3杯くらいです。沸騰した湯を茶碗を8分めまで注ぎ茶碗に注ぎ、それを急須に移し替えるとだいたい適量くらいで適温にさめます、その湯でお茶を入ます。浸出時間は乱30秒から1分くらいです。
 煎茶の楽しみ方は小さめの茶碗で濃いめのお茶が基本で、うまみを楽しみたい場合は湯の温度を低めにし、渋みや香りを楽しみたいときは湯の温度を高めにします。
美味しいお茶の名産地
宇治茶
 鎌倉時代に1191)に栄西が宋から持ち帰ったお茶の種子を贈られた明恵が植栽したのが宇治茶の始まり。室町時代、足利将軍義満が宇治に茶園を開きました。豊臣秀吉が茶の湯を好んで宇治茶の名声は天下に広まり、江戸時代、将軍家の手厚い庇護を受け栄えていき現在に至っています。
元文3年(1738)宇治田原・湯屋谷の永谷宗円によって青製煎茶製法という煎茶製法が創案されました。この製法は現在の煎茶製法の基本となり日本緑茶技術の基礎となっています。
内陸部でも特に日照時間の短い山間部の茶園でっくられるお茶は、うまみをたくさん含んでおり、宇治茶の真骨頂といえます。
静岡茶
 静岡でお茶の栽培が始まったのは鎌倉時代ごろ。高僧聖一国師が宋から種子を持ち帰り駿河足窪に時いたのが最初だと伝えられています。
 明治維新を迎えると、職を失っていた徳川藩士や大井川の川越人足などが牧之原ム口比で茶園の開墾にあたり、大きく躍進しました。こうして日本一のお茶の生産地となっていきました。
狭山茶
 鎌倉時代に明恵が川越に植栽したのが狭山茶の始まりで、銘園五場に数えられました。本格的にお茶が栽培され始めたのは、お茶を飲む習慣が大衆化江戸時代明治に入り製茶業が発展し、昧の狭山茶として定着していきました。
 お茶の木にとっては寒い所なので、で栽培される狭山茶は、冬を越した茶葉が自然に厚くなる特徴があります。このため、狭山茶はコクと深い味わいをもつとして評価されています。
近江茶
 日本茶発祥地といわれる歴史は古く、延暦別年(805)、最澄が唐から持ち帰ったお茶の種子を比叡山麓の坂本に時いたのが茶樹伝授の起源といわれています。
 室町時代から茶道が盛ん,なるにつれ、お茶も信楽焼の茶壷も盛んになりました。滋賀県で生産されるお茶を総称して近江茶と呼んでいます。
 信楽町周辺で生産されるお茶は朝宮茶と呼ばれています。高地に茶畑が広がり、年間の温度差が大きいという独特の気象条件と、霧の発生しやすい立地など茶栽培に好適な条件を備ええています。
大和茶
 歴史は古く、大同一九年(806)に空海が中国からお茶の種を持ち帰ったのが始まりと伝わっています。
 大和では寺院の庭園などでお茶が栽培されていました。室町時代になって一般にもお茶の風習が定着すると、寺院以外の地でも盛んにお茶を栽培するようになっていきます。
 大和高原一帯の山間地の冷涼地で、日照時間も短く地域の気象条件を生かしたうまみを多く分んだは質のお茶ができるのが特徴です。
伊勢茶
 お茶は延喜年間9011923浄林寺の玄庵がこの地域に茶の木を栽培したのが始まり、と伝ぇられています。元文元年1736に大阪で、また文政元年1818に江戸で、伊勢茶が売られていました。元亀年間には伊賀八鳥などがお茶の産地として知られています。
県内のほとんどの地域がお茶栽培に適した気象条件を備えています。
土佐茶
 憎行基が、神亀元年(724)ごろ、寺院にお茶を植えたといい、大同2年807ごろ空海が、お茶の種子や喫茶法を授けたといわれています。
 江戸時代、寛文2年(1662)土佐藩主山内一農が新たにお茶を植えさせ、国中にお茶が広まっていきます。江戸時代の中・後期になると、藩御用茶が各地で生産されています。また、土佐茶が西日本各地に名産品として送られていました。
 早期出荷と品質のよさに定評があります。日の出が遅く、日没が早い山間の斜面で成育するため苫みが少なく豊かな味わいのお茶の栽培に適しています。
八女茶
 建久z年(1191)に、日本にお茶の種を持ち込んだ憎、栄西が、福岡市の南部にそひえる背振山にある霊佃寺の石上攻近くに、大陸から持ち帰ったお茶の種を蒔いたのが福岡県のお茶の始まりといわれています。
 天保年間ごろ、地質や気象などの自然条件に恵まれている八女地方の山間部でお束の栽培が広まっていきます。
 コク、昧、香りなどに優れた八女茶は、全国的にも評価の高い銘茶として知られています。
嬉野茶
 嬉野茶は永享12年(1440)明から渡来してきた陶工が嬉野で栽培したのが始まり。以後、嬉野がお茶の産地とし発展してぃきます。オランダの商社によって嬉野茶記録が残っています。その当時から嬉野茶が日本のお茶を代表するブランドです。
 佐賀を代表するブランド嬉野茶の主流は、釜妙り手操み茶と煎茶の長所を合せもった蒸し製玉緑茶です。丸く艶のぁる緑色の茶葉が嬉軒茶の特徴の一っです。香りとうまみが強いお茶を昧わぅごとができます。

GREEN TEA ISEYA

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