The CASTLE in JAPAN
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江戸城
康正2年(1456)太田道潅がここに江戸城を築く.天正18年(1590)徳川l家康は小田原攻めの功にょり関八州を与えられ江戸に入府した家康は征夷大将軍となり幕府を開く.
諸大名の天下普請のもとに天下の府城を構築した.規模は壮大な軍事と都市機能すべてを形成,内城には軍事・行政の中核機能を置き,城下町には諸大名屋敷・家臣団の居住区と商工業者の産業経済の機能を有機的に配置した
本丸に天下統―のシンボル豪壮な天守があげられた実に高さ84mである鉛の色が陽に映える姿は壮観で史上最大の木造建築である
北は飯田橋から東へぉ茶の水の丘を掘り割り隅田川に達する酉は市ケ谷・四ッ谷・赤坂と連なる.南は,溜池・虎の門・新橋と連なる線で,浜御殿で海に出る.隅田川は惣構の東辺を形成,惣構の全長は20kmを超ぇ江戸は史上空前の城郭都市であった.

大阪城
1583秀吉は石山本願寺の曲輪をそのままに使用して,本丸・二の丸・三の丸をつくった..その石垣は,総延長約12kmにも及んだ東横堀ゃ道頓堀は,大坂城西側の惣構の堀の―部でぁる天守建築の内部や軒互に金箔をほどこし五層八階の輝きであった
慶長19年,大坂冬の陣で豊臣大坂城はすべて崩壊.家康はすべて土中に沈めその上に石垣に巨石をふんだんに使用て城を築ぃた1630小堀遠州が天守建築を築ぃた.豊臣時代ょり―まわり大きかったという.・
二条城
金沢城
さすが加賀百万石の城。高度な技術にょる築城で曲輪が巧みに配された堅固な城でぁる.
城の起源は天文15年(1546)に築かれた山御坊で,本丸付近にあったと推定されてぃる
天正11年(1583に封ぜられた前由利家がこの地に入って城を大拡張;関ケ原合戦,加賀3か国を領する最大の大名になった・
石川門は溺手門でぁるが巨大な析形門でこの城のシンボルとされるみごとなものでぁる.門柱ゃ門扉に鉄板が張られて黒光りする重厚さ菱櫓の破風出格子窓の優美さ門に続く太鼓塀の海鼠壁などこの城の見所でぁる.

鹿児島城
薩摩藩77万万は全国第2位の犬藩であるにしては小規模で城というより居館である.
石垣がめぐってるのは方形をしてる本丸の二面だけで本丸の正面に不釣合いな大きい大手門を備えている.ところが他の城のように屈曲はなく,むき出しの門である.
二の丸は本丸を囲む形ではなく本丸と並んで組長く続いている堀はなく石垣も低く無防備である.この本丸と二の丸だけで三の丸すらない,

島津氏はぃちども転封されることなく明治まで続ぃた
仙台城
さすが伊達改宗の選地である.青葉山刀中腹,海抜130m余りの地点が本丸でかなりの急坂を登った上である.本丸の前面東側は,広瀬川に臨む65mの断崖,南側は深さ50mの龍の口渓谷,西は人を寄せっけない深い山林に続いている.
本丸には大広間などの建物が並んでいた.桃山風の豪華な建築であったという.
寛永15〜16年に二の丸・三の丸を造営する.広瀬川lの河岸段丘上である.本丸より広い面積の二の丸は藩主の居館や大書院など藩の政庁で城の中枢機能があった.

名古屋城
慶長15年(1610)徳川l家康が義直のために自ら栗いた城である
五層の天守ならびに小天守は往時のまま忠実に再建され小天守を通らなければ大天守に登閣できない構造になっており,連結する橋台は,左右に高い石垣を築き,その上に両側とも土塀をつくって通路の防御としている.天守の屋根には,金の鮪が輝いている.
本丸中央には本丸御殿があり,玄関・表書院・対面所・上洛殿・湯殿書院
いずれも書院造の壮麗なもので典型的な桃山建築であった
現存する御深井丸の西北隅櫓で清州悌の小天守を移築したものと伝えられている.屋根は三層になっており落狭間が床面にあり安定感を増しどっしりとした美しさ
その三の丸を取り巻くように外郭堀遺構が現存している

犬山城
山間部を流れてきた木曽川が平野に変わるところに位置しており,中山道・美濃街道を制する要地である.文明元年(1469)この地に城が築かれた1599金山城の建物すべてを解体し犬山へ運んだ,
元和3年(1617)尾張藩の後見として代々成瀬氏が城主とな明治になっても天守が壊されることなく残された.

和歌山城
天正13年(1585)根釆寺や雑賀党を敗った秀吉は紀の川の河口に近い吹上の峰に城郭を築いた・
関ケ原合戦の功により浅野幸長が和歌山へ入国した1600虎伏山の西寄りに本丸,東寄りに二の丸を普請した・
1619徳川l頼宣が入国.城郭の改築と城庁町の拡大に着手した・
1846火災で天守が焼失し三層三階天守を白壁にした連立式天守が建立された・

熊本城
名築城家加藤清正の集大成.天正15年肥後預主となった加藤清正が茶白山に築城.北方から南流する坪井川,西側は井芹川lを改修して天然の堀として合流させ東方の日川を外堀とし北方は堀と土居で固めた.周囲5.3km,面積約80haの大規模な城でぁる・
天守建築は五層六階地下―階で上部白漆喰,下部下見板張黒柿渋塗で狭間や石落としをもっ武骨な外観
宇土櫓は三層五階地下―階,破風は反リがなく直線的で五階は回縁高欄の望楼でぁる
石垣は下方は緩やかで上方は直立する武者返しの工法でこれが重層となり曲折をもっ景観はみごとである.

福岡城
黒田長政が関ケ原合戦で武勲をたて筑前52万万に抜擢され博多の西はずれの台地福崎に築城,
内城だけで8万坪,周囲に永堀をめぐらし西方の大濠は港湾の役を果たした.中心部は本丸,天守台がぁり高ぃ石垣で囲まれ,随所の櫓は47基もあった 長大壮観な両端の二階隅櫓が当城唯―の現存建物として残る.
外城はさらに北方荒戸山から福岡港まで広がり惣曲輪を形成総域は十数万坪に及び,さらに支城が六つあった

広島城
その濠に浮かぶ姿が鯉を思ゎせる鯉城
1589年中国の太守120万石の毛利氏輝元は本拠を太田川が瀬戸内侮の広島湾に注五箇庄に本拠を移す
広島城は大きく二っに分かれた太田川とその支流をそのまま濠に用し さらに堀を穿って造成しつくられた平城で,水域の機能もあった壮大整然たる城郭
元和3年1617 浅野長展が42万6干石で入封し250年続ぃた
天守は本丸北西隅に建てられ下見板張入母屋を重ねた五層五階の優雅な望楼をのせた安定感がぁり桃山初期様式,
東側と南側それぞれ三層小天守を連結した複合連結式天守であった.
天守のほか二層櫓33基,単層櫓32櫓門12基を数ぇる大規模なものであった
萩城
1600萩に移された毛利氏は海中に突き出した半島の指月山を背に詰の丸としその南麓に本丸を設け,本丸の南西隅には複合式天守があり,その外側に堀内と名付けた広大な地域を三の丸とし,
さらに広く松本川と僑本川とに分かれた三角州内すべてを惣構とし萩城のた郭丙に含まれてぃた.
津和野からの街道沿ぃに東光寺,山口への表街道には大照院を置ぃて城郭都市の外側の守りとした.
彦根城
慶長8年く1603)井伊直政は彦根 へ栄転 しこの築城にあたり建物を他城から移築した.
天守は大津城の天守を移築されたもので初層が東西に入母屋造,両端は切妻に破風を飾り,二眉目の屋根は東南に唐破風,南北に千鳥破風,三眉目は入母屋造で南北を唐破風で飾っている.
廊下橋と天秤櫓は彦根城のシンボル的存在.西棟多聞櫓と束棟多聞櫓の白壁と堀が実に美しい.
福井城
関ケ原合戦ののち家康は100万万の前田家に対する拠点として越前の領主として結城秀康を慶長5年(1600)に配置した.北の庄城を活用しながら大改修を行ぃ福井と改称した.濠をぃくえにもめぐらせ南に坤櫓東艮櫓東南に巽櫓が建てられ規模は壮大な惣構の思図をもって取り組まれていた
佐賀城
鍋島氏35万石さすがに大藩の貫禄がある濠の幅は広く70m以上にも及ぶ
この域は鍋島直茂が竜造寺氏の村中城を基礎として拡大充実その輪郭はほとんど佐賀城に引き継がれている
鮪の門は戦火を免れ唯―の建築物遺構.二階建て入母屋の櫓門で,青銅の鮪が飾られ佐賀城のシンボルとなっている.
岡山城
1573学喜多氏が石山丘陵にあった金光氏の館を本城とした.
学喜多秀家が,旭川の川筋を変ぇ本丸を石山の東方に移して岡山城を築ぃた
1603池田氏が岡山領主となって西の丸などを拡張・整備した.二代忠雄(1615)のとき月見櫓ができた.
丘陵に本丸を構ぇ南側に広く二の丸を設げ北と東側を旭川が包み込んでぃる城は天守ゃ主櫓群の壁の下見板が柿渋ど瓦墨で黒っぽく見えるので鳥城と呼ばれ,同じ山陽道の白亜の姫路城と好対称とされた.
天守はその平面が不等辺五角形になっているのは岩盤の形に従ったためとぃわれる・

高知城
南国土佐の名城四国全土を制圧した長宗我部元親は領国経営のため築城に着手した.しかし治水工事がはかどらず諦め浦戸城を修築して入城,
関ケ原合戦代わって山内二豊が土佐24万万を領して入城した.河川の付替え,堀川の掘削など治水万全を期し1601大高坂築城と城下町建設着工この城は本丸機構が完全に現存存する
1747再築の天守は高欄をめぐらし,棟上に銅の鮪をぃただく.順次縮少して安定感がある―豊旧領の掛川城天守の形式を踏襲したとぃわれ慶長初期の姿を今に残す貢重な存在である
本丸御殿は藩主の正式謁見の場で装飾が少なく簡素ではある
詰門は二重で,上層は二の丸から本丸への進入路,下層は束の三の丸から西の空濠道を掘するこの構造は珍しぃ城内門でぁる..廊下門は詰門にT字形に接し下に埋門式で本丸の壇に昇る石段をかかぇる.
大手門は享和元年1801の再築で入母屋造の豪壮な構ぇでぁる.

会津若松城
みちのくを代表する名城,1384に築かれた黒川館が前身で萱名氏の会津守護所だった.120万石の上杉景勝が入城,城の改修が原因の家康の会津攻めで関ケ原合戦が起こり上杉は米沢へ移封された.1643将軍家光の弟保科正三が入城.松平は9代にわたって続ぃた.戊辰の伎に砲撃を受け開城された
盛岡城
石垣が雄大で美しぃことで知られる東北の名城,秀吉に安堵され1597に始まった近世城郭としての本格的な築城に近江の大太の石工を連れてきて石積みにあたらせた本丸の周囲は断崖で往時は城のすぐそばを北上川流れていた本丸の東南隅には三重櫓があり天守の役割をしてぃた鎌倉時代から支配カをもってぃた南部氏20万石はぃちども転封されることなく続ぃて明治を迎えてぃる
久保田城
城を築ぃたのは水戸に君臨した佐竹義宣で関ケ原合戦の結果秋田へ 慶長7年(1602)国替えを命じられた
本丸には天守はなく隅櫓はどれも単層であった,石垣はなく土居と堀がめぐってぃる質素な城である.

姫路城
米沢城
関ケ原合戦1600の結果上杉景勝は会津120万万を米沢に減封.
水濠をもっ平城で石垣はなく土居で本丸には天守がなく三階櫓が2基建てられた.特筆すべきは上杉謙信を安置したお霊屋が設けられた点で歴代藩主から尊崇を集めていた
松江城
宍道湖半600mにぁる.慶長12年(1607)から5か年をかけて松江城を完成した. その後寛永15年1638松平直政(結城秀康の第3子)が出雲18万6干石の領主として入封
城は高さ28mの亀田山の―部を削った上・中段に築かれたもので,南側の三の丸は四方濠に囲まれたの形で,かつては本丸のほか櫓6基が建ち並び,南側の二の丸には壮大な御書院と月見櫓・太鼓櫓などがあった東北側の濠は城がぁる亀白山と裏の赤山との間を崩して,さらに掘る大工事であった.
天守は今に残る唯―の建物で,二層目の方が大きぃ床面を張り出して后*としと構造で,また三層目が入母屋を左右に張り出して二層の大入母屋とのバランスをとっている,千鳥破風が構成美にァクセントをっけてぃるのが千鳥城の名の由来でまた華灯窓と望楼式内部高欄も独特でぁる.ここからの眺望は東に大山西に宍道湖と素晴らしぃ.

松山城
松山城は四国最大の城で加藤嘉明が慶長7年1602築城に着手26年かけて完成させた.
城は勝山の頂部二つの峰を削下して中間の鞍部に盛土し造成した北半に天守曲輪があり高石垣の上に重厚堅固な連立式天守群を構成する
二の丸は,勝山西南麓の緩斜面を数段に削平した曲輪で酉は水濠を隔て三の丸に接し城主の居館などが置かれた.
三の丸は周囲に土塁と水濠をめぐらす藩庁が置かれ中堅武士の居住区でもあった.

高松城
天正15年1587生駒規正が瀬戸内海を監視する戦術的拠点として築城1642松平頼重が入封した
中央に本丸があり三層五重の南蛮風の天守があった.三重の堀に海水を導き北側が海浜に面した水城という縄張の城郭である
艮櫓は第二の天守とも呼ぼれる威風堂々たる櫓である.海に面した北側は防波堤の機能も持っていた・月見櫓続櫓・水手御門・渡櫓などが往時の海に面して建っている
小倉城
関ケ原合戦後の慶長7年(1602)に細川氏が新城を築ぃた.天守は 五階と四階の間に屋根庇がなく,かっ五階目が大きくはみ出してぃる南蛮造と呼ぶ独特の構迫をもっていた。
寛永9年1632小笠原忠真が九州最有ヵの譜代大名として多数の外様大名の中で九州探題的役割を果たし幕府の長州征伐に際し徹底抗戦を続けたが慶応2年1866自らの手で城を焼き放って明治維新を迎える.

宇和島城
慶長元年1596城郭を築いたのは藤堂高虎である.ここはもと宇和島湾に浮かぶ離れ小島で北西が波に洗われていた
城のプランは不等辺五角形で城山の頂を本丸とし,高石垣で固め帯曲輪をめぐらす.東と南は断崖である.北に緩やかに降りる尾根を順次三段に削下した縄張である.天守は伊達宗利が寛文5年(1665)に再築したもので層塔式三層三階でバランスがよく荘重で美しい.
大垣城
東山道の抑えと畿内東国の境になる軍事・経済士要な位置をしめるこの地に天文年間1532城が築かれた1590から伊藤氏の頃には四層四階の天守となった.1600石田三成は入城した.家康は野戦に誘い出す結果関ケ原の戦いとなり寛永12年(1635)戸田氏鉄が城主になって惣構約4kmに及ぶ規模の城になった
福山城
外様の大藩、備前の池田,安芸の浅野,防長の毛利その中間にあって山陽道と瀬戸内海を掘すこの要地に西国探題として譜代が布石された
水野勝成が芦田川河口の三角州全体を城郭地域とし要の位置にぁる常興寺山に城を配置した天守は逓減率が小さく最上層は望楼型であったが雨覆板戸が下がり高欄はすべて腰板で覆われ,北側は全面鉄板張であった
御湯殿は本丸の塀から突き出て城主が城下を眺望するようになっていた.
弘前城
松代城
岡崎城
1455三河守護代西郷氏に館をつくり,大永4年1524台頭した松平清康のものになる1542徳川家康が誕生した1549今川I義元が支配した.水様3年(1560)義元が桶狭間で討死し,家康が入城した
徳川の天下になって城主はたびたび替わったが譜代の有カ大名が配された
白河城
北は阿武隈川,南は谷津田川に挟まれた台地で 関ケ原合戦後東北地方への要衝として重視,寛永4年1627丹羽長重が棚倉ょり入封.同6年から4年をかけ近世城郭への,引き継ぃだ城を大改造し,彼は城の南を流れる阿武隈川を北側に変えて外堀とし,重厚な石垣を新しく築ぃた.本丸東北隅の三階櫓で天守の代用.そのほかに櫓3基,帯曲輪に4基ぁり,石垣で固め石垣は雄大で高さは北部の断崖部では6間以上に及ぶ.石積みは特殊な技法が使われ高度の技術を発揮してぃる.堀は北部が広く深ぃ水堀,南は三重堀を形成する.

丸亀城
独立した岩山65mの亀山の頂部を削下し山腹はいくえにも積み上げた高石垣で固める.その周囲にほぼ方形に水濠を構え麓に惣構を配する縄張である.水濠から城内への舟入を掘り入れ海から直接に城内への水運を確保している.石塁の総高は5Omを優に超え,豪壮な石垣が豊かに裾を引き扇の勾配がカ強くせまる本丸北東の隅に三層三階層塔式の天守があがる.大手桝形は大きなもので高麗門と内渡櫓門とから成る.切込はぎの石垣積み両脚の上に建っ入母屋造,白壁塗本瓦葺の堂々たる門である.

中津城
大洲城
上田城
真田昌幸が天正11年(1583)築城した天正13年(1585)徳川軍が大軍で攻め寄せたがこれに大勝した.また慶長5年徳川I秀忠が総勢3万人余で攻めたが屈せず,秀忠軍の関ケ原参陣を遅らせたのは有名である.
寛水3年(1626)領王仙石忠政本丸に石垣をもつ隅櫓を築いた,隅櫓は3基残っている

山形城
土浦城
高崎城
吉田城
杵築城
国東の付け根八坂川と高山川河口に挟まれた独立丘陵標高40m東端の急峻な海蝕崖に三層三階の望楼式天守をぁげた.築城したのは木付頼直で当時は満潮時,城はまったく離れ小島と化した
寛永9年(1632)小笠原思卸が人リ,次ぃで正保2牛(1645)松平英親が3万万で入城した

小諸城
川越城
岩国城
岐阜城
伏見城

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